橘 周太之命(橘中佐)

慶応元年9月15日 長崎県千々石(ちぢわ)村小倉に生誕、勝山小学校、長崎中学校に進学し成績は常に優秀であった 15歳で単身上京 二松学舎三島毅の私塾で漢学を ほかの私塾で英数学等を習得し17歳にして 陸軍幼年学校に合格 田舎より飛び出した一少年の労苦勉学は血のにじむ事であった

22歳で陸軍士官学校歩兵科卒業 青森第五連隊小隊長として着任 上司の統率方針を分析し糸の把握に努め 隊員を訓練するときも常に情熱を燃やす 特に将兵の精神教育に抜群の手腕を発揮し 常に部下には自らが模範となって厳しくも思いやりを持って接した 部隊の士官候補生たちには『誠心をもって兵に接しなさい どんなに暑くとも兵が休まなければ自分も休んではいけない 兵が汗を拭わなければ自分も拭ってはいけない 兵が部屋に入らなければ自分も入ってはいけない 部下と苦楽を等しくするならば部下は死をも厭わない 死を厭わないのは指揮官を深く信頼すればこそである』と常に諭していた

こうした姿勢は中隊長時代も変わらず その功績は多くの人の目を見張らせるものであり 橘は『部下を愛すること深淵底無きがごとし』と言われるほどになる 

明治24年26歳の時東宮武官として皇太子殿下(大正天皇)の侍従武官として仕え 軍事学及び漢学、体操、武術、馬術、水泳のご教育に携われ一意専心皇太子殿下の御訓育に努めた

明治29年台湾守備中隊長として台湾に赴任 民生の安定にも心を配り郷民からも深く親しまれた 当時の台湾総督は乃木将軍であり中佐の乃木将軍敬慕の念は特に深かった

明治30年戸山学校教官 この時期多くの著書を世に送られた

明治35年少佐任官後 名古屋地方幼年学校校長として赴任

明治37年戦時勤務第二群管理部長 8月9日歩兵34連隊第一大隊長として 8月31日 第一線に出陣 遼陽城首山堡で壮烈な戦死

 

橘神社