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​橘神社について

国家守護の幸せの神様、至誠一貫の学問の神様

軍神・橘中佐を、お祀りした神社で、橘神社の入口には彫刻家・北村西望作による橘湾を望む勇ましい橘周太中佐の銅像が立ちます。 橘中佐とは東宮侍従武官(大正天皇の教育係)や、名古屋陸軍地方幼年学校長などを歴任した人物で、その素晴らしい功績とともに、人望厚く優れた性格で全国に知られています。昭和15年に長崎県社として創建されたこの神社は、春には約1000本の並木桜が参道をトンネルのように連なり、多くの客で賑わいます。また敷地内には橘周太中佐の生家の一部、橘中佐遺徳館を移築されています。年末になるとギネスブックにも認定された「世界一の門松」が登場。高さ約11m以上の巨大門松は明け方までライトアップされ、荘厳な雰囲気の中で新しい年を迎えられます。

長崎県内では、諏訪神社(長崎市)に次いで二番目の正月参拝者数を誇り、毎年1月の大寒の日には、近くの千々石川で寒中みそぎが行われます。

橘 周太之命(橘中佐)

慶応元年9月15日 長崎県千々石(ちぢわ)村小倉に生誕、勝山小学校、長崎中学校に進学し成績は常に優秀であった。15歳で単身上京。二松学舎三島毅の私塾で漢学を、ほかの私塾で英数学等を習得し17歳にして、陸軍幼年学校に合格。田舎より飛び出した一少年の労苦勉学は血のにじむ事であった。

22歳で陸軍士官学校歩兵科卒業。青森第五連隊小隊長として着任。上司の統率方針を分析し意図の把握に努め、隊員を訓練するときも常に情熱を燃やす。特に将兵の精神教育に抜群の手腕を発揮し、常に部下には自らが模範となって厳しくも思いやりを持って接した。部隊の士官候補生たちには『誠心をもって兵に接しなさい。どんなに暑くとも兵が休まなければ自分も休んではいけない。兵が汗を拭わなければ自分も拭ってはいけない。兵が部屋に入らなければ自分も入ってはいけない。部下と苦楽を等しくするならば部下は死をも厭わない。死を厭わないのは指揮官を深く信頼すればこそである。』と常に諭していた。

 

こうした姿勢は中隊長時代も変わらず、その功績は多くの人の目を見張らせるものであり、橘は『部下を愛すること深淵底無きがごとし』と言われるほどになる。

明治24年26歳の時東宮武官として皇太子殿下(大正天皇)の侍従武官として仕え、軍事学及び漢学、体操、武術、馬術、水泳のご教育に携われ一意専心皇太子殿下の御訓育に努めた。

明治29年台湾守備中隊長として台湾に赴任。民生の安定にも心を配り郷民からも深く親しまれた。当時の台湾総督は乃木将軍であり中佐の乃木将軍敬慕の念は特に深かった。

明治30年戸山学校教官 この時期多くの著書を世に送られた。

明治35年少佐任官後 名古屋地方幼年学校校長として赴任。

明治37年戦時勤務第二群管理部長 8月9日歩兵34連隊第一大隊長として、8月31日 第一線に出陣。遼陽城首山堡で壮烈な戦死。

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